三澤屋文俊堂

きっと何者にもなれない

人間らしさと人工知能

今回の記事は心理学の講義に提出したレポートの再録です。

 

まえがき

 このレポートでは人間らしさとは何か、そしてそれに対する問いの一例としての人工知能について論じる。

人間らしさとは何か

 人間らしさとは何なのであろうか。この問いに対する答えは人それぞれであるが、例として挙げられるものは、「外見」「知能」「本能・感情」「会話」などである。これらを順に取り上げ、人間らしさの指標足りえるか論じていきたい。

第一に「外見」である。人の外見をしていれば人はそのモノを人と認識するだろうか。答えは否である。人は人工物が人の外見に近づけば近づくほど不気味さを感じる。これを不気味の谷と呼ぶ。この不気味の谷を乗り越えられるのかは不明である。またキリスト教圏では人間に似せて人工物を作るのは聖書に対する冒涜であるとの意識もあり、彼らは人工物である限りどれほど人間に似ていてもアンドロイドには拒否反応を起こすだろう。また外観が人間らしさを担保するのであれば、事故などで一般的人類からかけ離れた外見になった者は人間で無いとまで言えてしまう。よって「外見」は人間らしさの指標ではない。

 第二は「知能」である。思考して行動できる存在を人間と定義する考え方であるここで少し「人工知能」について論じたい。知能が人間らしさならば人工知能は人間になれるのかということである。

 初期の人工知能はすべての問題を解決できる一般問題解決装置として開発されたが、実世界ではある問題に関連している対象がどの範囲までなのかが判断しづらく行き詰まった。そこである特定の領域だけに絞ったエキスパートシステムが60年代後半に開発され一部は現在でも利用されているが、大部分は失敗した。これは人間のあるエキスパートの知識をすべてプログラミングしようとしても、人間は自分のもつすべての知識を言語化することは出来ないためであった。これらの失敗を踏まえ現在の人工知能で使用される方法論としては、神経細胞のつながりをモデルにしたニューラルネットワークと遺伝子を構成要素として、多数の個体の中から生存に適した個体のみを育てていく遺伝的アルゴリズムがある。これらの手法により今では人間の「クイズ王」を圧倒する人工知能や将棋でも人間のトッププロに勝利できる人工知能も生まれたが、そもそも知能を完璧に定義することが出来ず、何を実現すれば「人工知能」と認められるのか不確かであり、人間は相手の知能で人間らしさを定めないので「知能」も人間らしさの決定だではない。

 第三の「感情」であるが、これについては結論から述べる。「感情」は人間らしさの決定的側面では無い。感情とは脳の中心から外縁に至るまでの情報処理を外部から観察した現象のことである。他社の脳内での実際の情報処理ではなく外から観測される現象が感情なのであるから、実際には何の意図もない行動であっても人間はそこに感情を見出すことが出来る。例えば掃除ロボットは汚れたところを何度も往復して掃除するが、人間はその行動からロボットが喜んでいると受け取れる。相手が決して人間ではないロボットでもそう感じ取ることが出来るのなら人間である必要性がない。よって「感情」があることは人間らしさとはいえない。

 第四の「会話」についてはチューリングテストを例にとって「会話」は人間らしさの指標足りえるか論じたい。チューリングテストは文字のみのコミュニケーションで自分が会話している人物が人かコンピュータか識別するテストである。このテストではコンピュータであることを示しなおかつ人間で無いことを、あるいはその逆を同時に満たす質問が必要である。コンピュータである条件、人間である条件とは何であろうか。これを様々な視点から見ていく。

 まず相手の能力を測るような質問である。だが、このテストではわざと回答を遅くしたり間違えることも出来るので、ある問題が解けたからもしくは解けなかったからと言ってすぐさま人かコンピュータか判断は出来ない。次にそれまでの人生での体験や経験、記憶を尋ねるといった質問はこれは事前にバックストーリーを入力しておけばいい。また政治経済について語ってもらうような質問では人間でも語れる人語れない人がいるため人とコンピュータを判断する材料にはならない。このようにチューリングテストでは嘘がつけるので質問一つで識別するのは非常に困難である。とはいえ複数回会話を重ねることで積み重なる違和感によってたいていの人工知能は人では無いと見抜かれるが、人間でもこのチューリングテストを通過しない人物がいる。このため「会話」も人間らしさの決定打にはなりにくい。

 ところで人間のクイズ王に勝利する人工知能を上で挙げたが、この人工知能には「私」というものがない。例えば何色が好きかと聞けば大抵の人間であれば答えることが出来るだろう。しかし人工知能には答えられない。自我や自意識の無い存在を人間と呼ぶことは出来ない。

結論

 「人間らしさ」には各人の考え方があり、必ずしも意見は一致しない。また外見や知能、会話と言ったものは決定打には出来ない。私が考えるに自我の骨格に「外見」「知能」「本能・感情」「会話」などで肉付けをしたもの、それが外部から観測された時、それを搭載した存在は人間らしいといえるのではないだろうか。

感想

 講義であったが感情が実装されたAIが必要か? ということに関して自分は欲しいと思う。もちろん使役するためのAIが感情を持っていたらムカつくだろうが友としてのAIならむしろあるべきだろう。(もちろん無感情なロボット娘萌えを否定しようとは思わない。セリオ可愛いし。でも、辛いもうダメだと思った時に55年と88年ワールドシリーズでのドジャースの下馬評を覆す劇的な勝利を語って「確率なんてクソくらえです 私は最後の打者でしょう!? 監督!?」って言ってくれるAIは誰だって欲しいでしょう。)

 人工知能に搭載された感情は一種の演劇でそれを本当に感情と呼べるのか? という話もあったが人間が相手でも他人の感情は観測できる範囲でしか認識されないのだから、中身がどうであってもそう観測されるならそれは感情と言って差し支えないと考える。

 「人間らしい」の骨格は自我であると結論づけたが、これでは自我の発達していない子供は人類であっても人間ではない。ということになり、ああ「まだ人間じゃない」とはこういうことかと。

講義の感想

 以前アニマトリックスを見て、ロボットが自らロボットを生み出すようになればそれはある意味全く新しい種なのでは? なんてことを思った。デザイナーズチャイルドだって賛否はあっても人類ではあるなら設計されて生まれてくるロボットだってロボット自身が設計したらそれは繁殖なのでは?

 来栖川のメイドロボはみんな人間と言っていいレベルだけども彼女たちはしっかりとした自我があるわけで、またリセットされて自我が無くなったマルチはすごいこれじゃない感があるからやっぱり自我こそ人。